気分が悪くても別にええやん

未分類

誰かに向けたエッセイというより、自分に向けた日記を書くことにする。エッセイも気分で書くけど日記の頻度を増やそうと思ってる。まぁこうして説明してる時点ですでに日記っぽさが失われているような気もするけれど、そういうところを気にしないのはやはり僕の個人的な才能かもしれない。

昨日具合が悪かったぶん、今日が楽しい。風邪をひいたのかもしれないし季節の変わり目に体が追いつかなかったのかもしれない。実は今日もまだ引きずっている部分もあるけれど、頭というか心というか、そういう奥底に何かがスッと落ちてやたら安定して気分がいい。村上春樹の処女作『風の歌を聴け』に「気分が良くて何が悪い」という一文が出てくるけれど、そんな感じである。僕、あれ、好き。

昨日考えていたこと。もっと独り言っぽい文章を書いていった方が楽やなということで、日記を余計に書きまくろうと決意し行動に至る。というかこういう思考にたどり着いたことでひとつ気づいたことがあるんだけど、僕は自分が自覚している以上にこの文章の読み手のことを考えていたみたいだ。これは誰かの救済になるような内容かなとか、誰か笑ってくれるかなとか。

書きながらそれは違うなと気づいて好き勝手書くのだけれど、書く前の段階ではそういった無意識的な思考に縛られて、なんか書きたくないなぁと思うことがちょい増えていた。そして毎度僕の文章を読んでいるみなさんならすぐにピンとくる通り、僕は書きたくないと思ったら書かない主義である。やりたくないことは、それが必要であってもやらない主義である(でもこれを気軽に真似はしてはいけないのかもしれない。一応クリアすべきいくつかの条件みたいなものがあるから)。

こうして文章を書いていて、ああやっぱり小説書くの好きやなという気持ちに気づく。よし、今から日記を書くぞ、と言っているのにも関わらずである。この文章が小説なのか日記なのかは正直僕にとってはどうでもいい問題である。だからタグ付けもいつも「小説」と「エッセイ」と両方入れる。僕にとってはリアルかアンリアルなんてことはあんまり意味をなさない。少なくとも僕の文章の中ではそれが絶対的である。科学雑誌ではないので、事実検証は不要なのである。

科学雑誌という言葉でふと気づいたのだけれど、要するに先で説明した「他者を意識した文章」を書くようになったのはブログの影響だろう。

僕は脳科学や心理学といった分野が好きで、それをちょっと世界に広められたら助かる人がたくさんいるんじゃないかなと思ったりなんかして、ちょっくら心理学系のブログを始めた。が、やはり他者を意識すると故意的でなくても嘘をついたらあかんよなぁ〜と必要以上に完璧性に縛られてしまったようで、方向性を模索していた。

間違った情報が載るのもネットの特性だし、体に良いものも悪いものも含めて存在するからネットの意義があるのだと個人的には思うし、おそらくそれは社会的にも合っているのだと思う。正解不正解の答えしかない世界はどうも鬱陶しい。そういうのは人間には合わない。また不正解が悪という認識も鬱陶しい。それらは左右に分かれる枝分かれのような道ではなく、どちらも同じ一つの道の上に存在する、軌跡みたいなものだ。

鬱陶しいという言葉を書いていたら、何もかも鬱陶しく感じてきた。笑。本当に世の中は鬱陶しいことばかりである。

ま、鬱陶しいからこそ僕は楽しいんだけどね。気分が悪くても、別に悪くはないとも思う。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で
The following two tabs change content below.

kruchoro

読書と音楽とお喋りが好きです。Twitterで更新情報を発信してます^^